京都弾丸ツアー考察付きもたまにはいいかもの巻

節分なんだけれど弾丸ツアー行ってきます。

今回の目的は、たまには歴史の考察などしてみようという感じ、
先日伺った等持院で見た足利尊氏さんのお墓が
なせかひっそりとしていて寂しげだったこと、
すごく気になって調べてみたら
自分が持っていたイメージと全く違っていて
そのことを肌で感じて見たくって突然だけれど行ってきました。


先ずは天龍寺

鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇と尊氏さんが
その後の後醍醐天皇建武の新政に対して尊氏さんが二度の京都侵攻ののち
二人は京都側に尊氏、奈良側に後醍醐天皇南北朝に分かれてしまったそうですが、
その戦火の中、病気により崩御された後醍醐天皇の御霊を弔うために
敵方の尊氏と弟が建てられたのがこの天龍寺なんです、
お寺を建てるのには莫大な費用が必要なわけですが
元に貿易船を派遣してそれによる利益を造営費用にあてるという方法をとったそうです。


後醍醐天皇崩御以後、京都はひどい天変地異に襲われ、疫病も蔓延したそうで、これを後醍醐天皇の祟りと言われたり、
尊氏さんも後醍醐天皇の怨霊にひどく悩まされていて
そのために後醍醐天皇の御霊を弔おうとしたと伝えられています、


でも、本当にそうなのかなぁ…
尊氏さんは後醍醐天皇が亡くなったこと、
本当に悲しかったんじゃなかったのかな、
なんかそう思えて仕方ないのです、


一緒に鎌倉幕府と戦った、
その後尊氏さんは東国を納め、国王たる後醍醐天皇を誇らしくお支えしたかったのではないかと、
しかし後醍醐天皇のとった公家よりの政治に対して武家の棟梁として戦わざる負えなかった、でもやっぱり止めは刺せなかった…
逆賊とか逆臣とか政治的センスまるで無しという評価も多いけれど、
それ以前に後醍醐天皇ともう一度和解したかったのではないかと、
彼のとった政策の一部にもそんなことが感じられるんです。


天龍寺を建立するために出航させた天龍寺船
尊氏や弟さんのウルトラC(古い)だった気がします、
元寇の記憶も新しい幕府の要人の反対をおしきり、
可能な限りの民間活力を利用していて、
九州の商人や鎌倉時代に同じような寺社造営船の利益で建立した建長寺夢窓疎石さんを迎い入れ情報を分析し、
こんなチャンスを上げるのだから成功の如何に関わらず一定の税を取るという、成功しなければ帰って来れないようなシステムにして送り出す、
それに応えるように何ヶ月も港の外で足止めを喰らいながら粘り強く交渉を続け、ついに道を開いていった。



天龍寺

ここの壮大なお庭に込められた思いは
禅寺のお庭にある問答や人生とは少し離れて
『平和』なのかも知れません。


天龍寺の参道では節分七福神巡り、

どさくさに紛れて回ってみました、

ちゃんと申し込むと各塔頭で短冊をいただいてこんなのがつくれます。


続いて東寺の小子房、

現在、天皇をお迎えする迎賓館、現在も使われているそうです、
ここも尊氏さんが南北朝のとき洛中の争いが静まるまで御所と定めた場所でもあります、
本来、御所は都の北端に置き南を向いて京を見渡すわけですが
ここは京の南側の端、
北にいるべきお方はあの人しかいなかった、
と、勝手に推測しちゃいます。


東側の門には菊の透かし模様が誇らしく、

西の蓮花門は日本最古で国宝だそう、

お庭にはやたらでかい灯篭が

室内は墨絵の襖が五室、
眩しいほどの金箔の施さらた部屋には
繧繝紋様のへりが施された畳、
これは天皇御用達の印、
今回のツアー、この繧繝紋様もキーになっていたので
ちょっと興奮状態になってしまいました。


運良く、観智院も空いていましたよ、

ここはいつ来ても楽しい、
密教を肌で感じられる気がします。


そうそう、尊氏さんが京都に幕府を置いた理由も、
確かにその当時情報の中心は京都にあったと思います、
けれど、当時幕府は鎌倉に置くべきという意見が多数だったよう、
それでも京都にこだわったのは
やっぱり戻ってきて欲しかったら、
一緒に政を行うのにはこの地しか考えられなかった、
そんな風に思うのですよ。
長くなっちゃったので続きは明日。